とうとう東京にも花粉が飛び始めたらしいです。気象庁の予想では、今年は去年の1.7倍位の量か飛ぶそう。花粉症だけでなく、気管支喘息も抱えている身としては、頭の痛い季節がやってきました。そういえば、ここ数日どうも身体がダルい。疲れかなとも思っていたのですが、ひょっとしたら花粉症なのかもしれません。
ただ、ダルいのに身を任せたままにしておくと、自宅でどこまでも自堕落な生活を過ごしてしまいそうなので、昼から出掛けることにします。本日は池袋のあうるすぽっとで、チェルフィッチュさんの「消しゴム山」を観劇。自分はチェルフィッチュの「三月の5日間」を観て衝撃を受けたのが、小劇場の舞台や演劇にハマるきっかけになりました。なので、とても思い入れのあるカンパニーさんです。
「三月の5日間」は日本の演劇史に残る素晴らしい作品だと思うので、もし上演する機会があれば、未見の方は絶対に観たほうが良いです。まあ、そんな訳でとても楽しみなのです。
舞台上には、たくさんの「モノ」たちが所狭しと並んでいます。規則性がありそうななさそうな不思議な空間です。開演と同時に大きなミキサーのような機械の音。そこに人々が来て、断片的な話をしたり、誰に向かってでもなく語ったり、モノを人のように扱ったり、動かしたりします。
一つ一つに意味があるかのように感じたり、東北の震災や原発を想起したりするところもありますが、まるで観客が物語を紡ぐことを拒絶するかのように舞台は進んでいきます。途中、突如洗濯機が壊れた人たちが、コインランドリーに来て洗濯をした事を語りだすシーンがあります。そこで語り手の女性は洗濯機をさも人間のように扱います。ただ、すごく不思議なのは、擬人化しているはずなのに、洗濯機が「壊れた」と表現するように、彼女と洗濯機との関係が所々「モノ」に戻っていく所。何とも奇妙な感覚がします。
人って、基本的には辻褄が合っている方が、観ている人は気持ちいいですし、作り手はストレスを感じません。そして、どうしてこういう辻褄の合ってない舞台や小説を作ったのか、語りたくなるものです。しかし、作り手があまり前面に出て「辻褄」を合わせてしまったら、その瞬間にそれはとてもつまらないものになってしまいます。自分も、それが原因で残念な事になってしまった作品を、いくつも観たり読んだりしてきました。
この作品が凄いのは、不自然である事が、ちょっとしたセリフや動きや語り方にまで、徹底されている事。大きな音が一時間以上流れているのも、思考になりそうになるのを、見事に妨げてくれます。観終わった後は、あまりの不自然さの洪水にしばらく間、頭の中がかき回されたような気分になりました。そして、落ち着いた後に、既存の演劇って一体何なのだろうかと、考えずにはいられなくなりました。
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開演前
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終演後